Thursday, April 23, 2009

さて、昨日の投稿の続きを書きます。

まず、エドナ・オブライエンはブローティガンの最初のガールフレンドと、かれの親友の母親だった。の母親だった。

この未発表作品集のタイトルは、The Edna Webster Collection of Undiscovered Writings となっている。やっ、やっ、なんてこった。昨日のブログにはエドナ・オブライエンと書いて平然としていたのだ、このわたしといううっかり者は。オブライエンという名はどのようにして、あたかも黒頭巾、黒装束の忍者みたいに、わたしのこころに忍びこんでいたのか。

つくづく、自分に愛想をつかしているが、かといって、それでどうなるわけでもないから、「恥じさらし」を特技とした人間なんだとあきらめよう。

一九九二年の十月、やがてこのコレクションの編集をすることになったバートン・ワイスはブローティガンの作品のみを蒐集していたある友人から電話をうけとった。

その友人がいうことには、オレゴン州在住の年よりの女性から電話がかかってきて、彼女はブローティガンがオレゴン州ユージーンにいた当時、かれと非常に親しかった者だと伝えた。それがエドナ・ウェブスターだった。電話のエドナの声は、二十一歳のブローティガンがサン・フランシスコへ出奔する直前に彼女に手渡した未発表の原稿と数枚の写真を所持しているが、それを売りたいと考えている
と告げた。さらに電話の声は、「リチャードはそれらの原稿や写真の版権をすべてわたしに与えたいといったのです。そして原稿などをわたしの家へ届けにきたときには、その譲渡の証拠となる文書もちゃんとくれました」というのだった。

ワイスはその友人との電話の会話を終えると、ただちにエドナに電話をかけ、翌日にはサン・フランシスコ発の最初の飛行便でユージーンへ向かった。エドナの家に到着して即刻ふたりは銀行へ行き、彼女の貴重品をいれてあった金庫の鍵をあけた。中にはワイスが想像していた以上にすばらしく、このうえない貴重なものがしまわれていた。一九五〇年代におけるブローティガンの写真、高校の卒業証書、エドナに宛てた手紙--、そしてだれも読んだことのない最初期の作品の原稿など。

原稿と版権を売買する条件に冠する合意書にふたりは署名した。その後まもなくバークレー大学のバンクロフト図書館が「エドナ・ウェブスター保管文書」を購入し、一九八七年に「リチャード・ブローティガン関係コレクション」に加えられた。

バークレー大学のバンクロフト図書館へ行ってみたい。エドナ・ウェブスター’コレクションを見てみたい。どなたかいっしょに行ってみませんか。いつのことになるやら、現在は時期については予定を立てることはできないのですが。

ここで重要なことは、ホートン・ミフリン社のマリナー・ブックスの一冊として出版された本書はオレゴン時代のブロ-ティガンはすでにカリフォルニア『亡命」後の著作の土台をもっていたことを理解させてくれることだ。内容のおよそ八〇パーセントくらいは詩なのだが 、それは不毛な土(とりわけ「州立精神病院からの一通のラブレター」の章が語ろうとした)に蒔かれた粒粒の種子だ。

厭な予感がする。なにかを誤ってクリックしたりして、公開されてしまったとしたら困ってしまう。最初から推敲しなければとても読めるような文章ではないのだから。おお、いやだ。インターネットなんか、やはりかなり奇怪なからくりなのだ。用心しなければ、家の裏口から真っ裸で往来へとびだしてくようなことになるぞ。

ブローティガはエドナにそれまでのかれの「過去」を贈ったとき、「ぼくが有名な作家になったときには、これはすごく高値で売れるからね」といった。冗談でそういったのではいようにに思える。

小説家のトマス・マガンは「リチャードは間抜けな子どもで、持っていた玩具はといえば脳みそだけだった」といった。無一文の青年が持っていたのは,かれ自身の想像力だけだった。






 

Wednesday, April 22, 2009

ブローティガンの未発表作品

もう体力がありませんので、単行本の翻訳はやめます!とあちこちで宣言しました。ところがここらで気が変わったようなのです。それというのも、集英社がリチャード・ブローティガンの未発表の作品集の翻訳版をだすことになって、依頼がきて、そうか、ブローティガンならこれまでのことがあるのだから、やらねばならぬ、とわりと軽々しく引き受けてしまいました。

この未発表作品集というのは、ブローティガンがオレゴンにいた母親や妹たちをまるで遺棄するかのようにしてサンフランシスコへ「亡命」する直前に、それまでに書いた原稿・作品を一括して、エドナ・オブライエンという女性に渡したものでした。そらの作品の著作権などをすべて彼女に贈りたいといったのでした。そして、彼女の手にわたった原稿は、あらゆる状況において、その取り扱いはすべて彼女の意思にしたがってもらいたい、著作権その他すべての権利を彼女に引き渡す旨をしるした文書を残して故郷を去ったのでした。
ブローティフガンはオレゴン州にいた当時、周囲の者たちはよってたかって、「文章なんか書いて、なんの役にたつのかね。時間の浪費だ。無意味なことを一晩中やってるのは異常ではないか」とたえず非難されていたようです。そのような環境のなかで、このオブライエンさんだけが、かれの書きたいという衝動を理解して、励まし支持していたのではなかったでしょうか。

「ぼくは家出する。二度とこの町へ帰ってくるつもりは毛頭ないからね」と公衆電話をつかって家人に告げたということです。ヒッチハイクの旅でサン・フランシスコへ行くという決心をしていましたから、公衆電話ボックスを出て、ときをおかず、最初にかれを拾ってくれた車に乗ったのでした。

それまでに書いた作品を、ともかく自由自在に取り扱ってもらってかまわない、といってエドナさんにわたしたのは、ひとつには家出するまでのかれの過去と縁を切るという意味だったように思います。

『芝生の復讐』には「1/3  1/3 1/3 ]と題された物語があります。三人の人物がどしゃぶりの雨にゆれるトレーラーハウスで「談合」している話だ。(おや、です、ます調が急変してしまった)その三人とは、自分で建てたダンボール張りの掘っ立て小屋に棲んでいる一文なしの十七歳の青年と、生活保護を支給されて九歳の息子と暮らしている、脆くはかな三十代後半の単身の母と、製材所の貯水池のかたわらに置かれトレーラーハウスで寝起きして、製材所の夜警をしている飲んだくれのいかにも不運な印象をあたえる、四十代後半の男だった。三人の談合の内容は重大な画策にかかわるものだった。三人で役割を分担して、「小説を書こうじゃないか」という計画の可能性を検討していたのである。一文なし、無職の青年はタイプライターをもっているから仲間にいれてもらえた。当然、かれは原稿のタイプをうつ、製材所の夜警は小説を書く、そして生活保護の小切手を受け取る日をめぐって生きている単身の母は編集の責任をもつ、そういうことで約束がかわされた。

夜警が執筆中の小説は、若い樵がウェイトレスに恋をする、そういう話で、ノートに二〇ページくらい、小学生流の大きなのたくる字で記されていた。

この物語のなかには、「一九五二年、わたしは十七歳で、太平洋岸北西部にいて、雨ばかり降るくらいあの土地で寂しくて不安だった」と書かれている箇所がある。三人の談合は何を意味していたのか。かれは、「あのときわたしたちは雨のトレイラーのなかに坐りこんで、アメリカ文学の扉を叩いていたのである」とこのストーリーを結んでいる。なんとすばらしい結語ではないか。

あれ、変だ。『西瓜糖の日々』が増刷されることから書きはじめたのに、なぜ、わたし話は『芝生の復讐』に収録された「1/3 1/3 1/3」の方角へ行ってしまったのだろう?なにがいいたかったのか、そもそも。

あっ、そうだ。サン・フランシスコへ行く以前のブローティガンの生活についてヒントをあたえる物語だと思ったからだった。そして、それまでの作品をすべてエドナ・オブライエンに手わたして故郷を永遠に去った事実は、ブローティガンにとってこの女性はおそらく守護天使のような役目をはたしてくれた非常に重要な存在だったことを示している、とわたしは推察するのです。未発表作品の譲渡は、「アメリカ文学の扉を叩く」決心にいたるまでの過程に、なんらかの力をかしてくれた大切な恩人への深い感謝をあらわすためにかれが選んだ「行動」の形だったのではないかしら。

『不運な女』で、ブローティガンとは別れたと思っていたのに、またしてもかれの作品を翻訳するのはなぜだろうか。わたしはかれの作品はわたしが占有しているなどとついぞ考えたことはない。

あなたはこの世を去っていった数人の幽霊につきまとわれているのですよ、とあるひとにいわれた。ブローティガンもその一人なのでしょうか。答えはわかりません。たしかにいつまでもわたしの近くにで、幽霊たちがうろついている気配は感じます。「それらの幽霊」を負ぶっているわけでもないのに、いつも重いなにかに押しつぶされそうな気持ちは消滅しない。つねに肩と首がこってるのはそのせいでしょうか。マッサージや鍼をしてもらっても効き目がない。

かずこの文章はどんどん変になっていくね、といった友人。そういえば、このブログもどこか変ですねえ。本日はもうこれでお終い。

Friday, April 17, 2009

藤本和子ブログ始めます!

わたしのブログにようこそ!